私たち「人間」は、高度な知性を持った生き物です。その知性は他の動物を圧倒し、自然や他の生物を利用してしたたかに生きていく力を持つようになりました。山を切り開き、街を作り、大量に生産した食用の生物を消費しなかせら生きるまでに成長したのです。
私たちは個体では大した力を持たないものです。たったひとりでは一頭の牛さえ倒すことはできないでしょう。ですがだからこそ「考える」ことで他の人間と連携し、罠を作り、武器を作り、自分たちに必要な資源を協力して調達することができるようになったのです。私たちの存在の根本は「考えること」にあるといってもいいかもしれません。私たちは自らの手で自分たちが生きる環境を新しく整備するようになりました。自分たちが過ごしやすいように考え続けた結果が、「今」の社会であり、私たちが過ごしている毎日ということになるのです。
私たちは「考える」ものです。それはさまざまなことに対して「答え」が欲しいからです。それらの「答え」は、私たちの明日を豊かにするものでもありますし、私たちが生きていくために便利な技術を生み出すことでもあります。私たちは「社会」を形成しています。それは互いに考える私たち同士が共に豊かに生きていけるための、共生していけるための枠組みのことです。その中には法律などによって定められた「ルール」や、明文化されたわけではないにしてもわきまえたほうがいい「倫理や道徳」などといったもので構成されています。私たちが「ひとり」で生きていけるのであれば、特に存在しなくても良かったものかもしれません。ですが、人間が他者と認め合い、自分が「自分である」と認識するためには、そのような枠組みが必要だったのです。
「今」がすべて正しいのかどうかは答えが出ていません。現在が理想ではないのかもしれません。だから人はよく考えるものですし、「もっとできるはずだ」とさらに上を求めるのかもしれません。それらの取り組みもすべて、「他者」がいてこそです。社会の中に存在してこそです。私たちは日々のほとんどを他者との関わりで生きているようなものなのです。
だからこそ「悩む」のです。他者は他者であって自分ではないから、自分は自分でしかないから、悩むのです。「社会の中」での自分の位置、他者から見た自分、自分が社会に、他者に、与える影響を考えるのです。答えが出ないのです。もともと誰もが納得する「答え」は、社会の枠組みの中には少ないものです。だから「わからない」ことの方が多いのかもしれません。今の社会はみんなで決めたものでもあり、誰かが決めたものでもあるので、自分が「はみ出している」とか、「間違っている」と疎外感を感じてしまうことも多々あるものです。そのようにして悩み、迷い、時には考えないようにして過ごすことも大切だったりするのですが、人によっては「思考の井戸」のようなものに落ちてしまい、抜け出せなくなってしまうこともあるものです。そのようなときに「カウンセリング」を受けます。
自分で「このままではいけないとわかっている」のに、なかなか変えることができないときは、そのようなカウンセリングを受けることになります。カウンセリングは、ある「答え」を得るための方法でもあるのです。