答えはひとつではない
世の中のすべての事象に対して一定の答えを得ることは難しいものです。哲学にしても、宗教にしても、ある程度の「真理」を言い当てているのかもしれません。ですが、それが「すべて」であるとは限らないのです。
世の中が秘める「多様性」は、その全てをひとりの人間が理解することが出来ないほどバリエーション豊かなのです。地域によって、国によって、宗教によって、その常識が違うものなのです。私たちはそれらのすべてに対して自己をカスタマイズすることはできません。世の中に存在するすべての真理に対して私たちは納得することもできないのです。結局は自分が納得すること、居心地が良いところに収まるわけです。人は一生のなかで、この世の中の全ての風景、全ての真理に出会うことはできません。自分が関われる範囲は、世界がもつすべての一部なのです。
自分がどのように生きていくのか、どのような境遇でいたいのか、何がしたいのか、どこにいきたいのか、それは私たち自身が決めることであって、自由です。それらの選択をするためにさまざまな情報を参考にするはずなのですが、それらの情報は世の中の「すべて」ではなく、そのときの境遇にあった限られたものであるのです。
時には悩んで、時には心に傷を負いながら生きていく私たちは、それでも生きる義務があります。さまざまな境遇にいるさまざまな人が、もがきあがいて「明日は今日よりも良くなる」ということを望んで生きています。そのためには、その「悩み」に対してある一定の「答え」を得る必要があるのですが、それらは「自分にとっての真理」なのです。すべての人に対して適用されるものではないのです。いってしまえば、人によって「最善」が異なるのです。答えが違うのです。
世界は人がみんなで共有しているものでありながら、それを感じている自分自身だけのものでもあります。自分が感じていることと、他の人が感じていることが違うことは往々にしてあります。だから真理も答えも違うのです。「誰かが乗り越えた」方法は、自分に対しては適用できないかもしれないのです。だからひとりひとりにあった「答え」を探す必要があります。「自分だけ」の真理を探す必要があります。
それも、ひとりの人に対してひとつしかないわけてはないのです。実は答えは無限にあって、それらの中から自分で「選ぶ」必要があるのです。誰も代わりには選んでくれません。選択肢を用意してくれることはあっても、決めるのは「自分」です。カウンセラーでも、最終的にどのような答えがいいのかはわからないものなのです。
自分が感じている世界は自分だけのものです。人と共有している時間も、自分と他人では感じ方が違うものです。自分で自分の世界を作り上げていく必要があるのです。どこかに存在することは知っていても、実際に目にしなければ、手に取らなければ、それは存在していないことと同じであるのかもしれません。そして、私たちが接することができることは実に「僅か」なのです。私たちは自分が見ている、感じている世界の中で、幸せになれるように、そう感じられるように、自分を磨いていきます。その磨き方も目指すところも、自分にしかわからないものなのです。可能性は無限にあります。あとは、「選び方」なのです。