自信を持つことで救われる

人にはそれぞれ得手不得手があります。私たちはそれぞれの「特性」を持っています。それは人から「向いている」と形容されたり、「才能」と形容されたりするものです。そのようなことは誰もが持っていて、何かのカタチで社会に貢献するのです。

「自分には何もない」と言い切ることは簡単です。ですがそれでは、自分で自分の可能性を遮断しているようなものなのです。生まれながらにして何かの才能を備えているような人は、実はいません。遺伝的に肉体の特性に差がつくことはもちろんあります。ですが、そのようなことは実はいきている間にいくらでもカバーできるのです。

どのようなことも続けなければ上達しません。どのようなことも続けなければ意味がありません。「才能」とは、言い換えれば「続けること」です。続けることには「パワー」が必要です。決して義務感ではなく、受動的でもなく、自分から「やろう」と思えること、それが「才能」です。才能とは与えられるものでもなく、天から降ってくるものでもなく、自分の「意志」から湧いてくるものです。「結果」は、それに付随するものです。

自分には何の才能もない、と言い切ることは、「自分はなにもやりたくない」と言っているようなものです。「何もやりたくない」という言い訳が、「才能がない」ということなのです。「才能」は、「原因」にはなりません。また、「やりたいこと」は自分が決めるものであって、人に押し付けられるものでもありません。自分がどのようにして生きていくのか、自分がどのようなことに関わるのか、それはやはり自分が決めることです。そして、どのようなことでも私たちは出来るはずなのです。

「今からでは無理だ」といえば、その人にとっては本当に「無理」になるのです。「まだどうにでもなる」という人は、本当に「どうにかなる」のです。その差は「意志」です。何かを追い求める意志、辞めない意志、実際に行動する「意志」。それがすべてを左右します。外的要因は実はどのようなことに対しても作用しないのです。それは多少の障害にはなるかもしれません。ですが、意志の力で跳ね返すことができます。私たちはどのようなことでもできます。私たちはどのようなことも、乗り越えることができるのです。

ただ、人生の中では時間は限られています。私たちは「何か」を選んで追求していくしかないのです。だから「特化」する必要があるのです。「なんでもできる人」はいません。誰もが自分が「意志」を持ち続けられる何かを探しています。そのようなことに出会うのです。「やりたいこととなんかない」という人は、まだ見つけられていないだけです。私たちは必ず何かに出会います。それが「家族を大切にすること」でもいいのです。「誰かを愛すること」でもいいのです。そのために必要なことが沢山あります。そのために行わなければいけないことが沢山あります。そのようなことを、「意志」をもって乗り越えていくのです。

そのような「意志」を持った時に、同時に私たちは「自信」を持つことができます。「自信」とは、自分で自分の居場所、するべきことを見つけた時に持つものです。それが生きる原動力になり、他人に対して誇れることになるのです。

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