宗教の原理とカウンセリング

古来、人が生きていくうえで「精神」はもっとも重視されたもののひとつでした。現代のように誰もがどのような情報でも得られる世の中ではなかったころは、どこかに自分の精神の拠り所を見つける必要がありました。

社会がこのように万人に等しいカタチに発達するまでは、私たちの生活はもっとシンプルでした。言ってしまえば、「生きていくことで精一杯」というような人も沢山いたのです。現代とは価値観も違います。すべての人が等しく教育を受けているわけでもありません。ただ、それでも生きていました。私たちは生きている日々に感謝しながら生活をしていたのです。

現代で私たちが「当たり前だ」と感じている規範や倫理がない時代もありました。領地が欲しければそれを奪い、食料が欲しければそれを奪い、力のある人が力のない人を虐げていた時代もありました。その力のある人も、それで「良い世の中になる」と考えていたのかもしれません。或いは本当に愚かだったのかもしれません。そのような「生きることが困難な時代」にも、私たちの精神は確実に存在していました。どんな時でも私たちには「感性」があったのです。父祖から教えられた人としての在り方があったのです。

宗教は有史以来存在が確認されているものです。宗教はひとつの文化でもありますが、当時の人々の精神性を表すものでもありました。科学が発達していなかった時代では超常的な現象も「常識」として捉えられていました。そのようなものも包括して、人々は自分の心の拠り所として宗教を見出したのです。その機嫌はハッキリと解明されているわけではありません。ただ、それらの教えのなかには現代の倫理に通じるものもあります。他者と自己の関わりに関しても多く語られています。

最終到達点は幸せな世界であることは、どんな宗教でも変わりがありません。中には排他的なものや攻撃的なものもありますが、基本は同族を守るための、共存していくためのものです。人はやはりどこかで自分を律する規範が欲しいのです。自分がどのようにして生きていくかの「軸」が欲しい物なのです。それらを具現化し、集団的に奉られたものが宗教でした。

すべての宗教が語るようにこのよに奇跡があるのかどうかはわかりません。いつか世界が終わってしまうのかはわかりません。そのような形式的なものは除いても、それぞれの宗教の中には私たちが拠り所にできるほどの確固たる精神性と、合理性があったのです。カウンセラーなどがいない時代では、私たちは迷ったら答えを信仰の中に求めることもあったのです。私たちが生きてきた中で、それらの教義は確実に実生活を左右するものでもあり、同じ信仰の人とは共存が可能であったのです。

私たちは本質的に「安定」を求めるのだと思います。どこかに「答え」が欲しいのだと思います。実際はそのような都合の良い答えなどはなくても、本能としてそれを追い求めるのが私たちなのかもしれません。宗教の存在はそれを裏付けるものです。そのような精神性を具現化した「宗教」だからこそ、それに基づいた文化が発達したり社会が築かれたのではないでしょうか。現代に奇跡を信じるかどうかは別にしても、私たちの精神的な取り組みは古来から進んでいたものなのです。

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