カウンセリングもさまざま

一言で「カウンセリング」といっても実にさまざまなものがあります。最終的な目的は「悩み」を解決することではあるのですが、すでに起こってしまったことや変えようもない事実はカウンセリングでも解消できません。ですからその物事に対する「捉え方」を変えるしかないのです。

人にはさまざまな嗜好があります。他の人がそれで「良い」といったようなことも、自分にとってはどうしようもなく不快なこともあるかもしれません。それは誰もラインを定めることができない「自分だけの基準」です。自分が良いと思うこと、我慢できないこと、それらはその人の自由なのです。ですが、それが度をすぎると社会で「普通」とされていることに対してどうしても馴染めなくなってしまうこともあるかもしれません。そのようなことつづくと社会生活において支障をきたすような局面もでてくるかもしれないのです。

ですが、ただひとりの人のために社会の規範や通念を変えることはできません。誰もがそれを認め、改善する必要があると理解した時でなければ、変わらないのです。例えば、「朝おはようというのがどうしても嫌だ」という人は、自分を変えなければいけません。「挨拶のない社会」にはどうしてもならないからです。それは「好み」で済まされることではありません。これは極端な例ではありますが、このように人それぞれの考えと「社会」は必ずしもマッチングしていません。だからこそ難しいいのです。そのようにして生きにくくなってしまった人は、どうにか自分が社会に適合できるように努力をする必要があります。その時に手助けになるのが「カウンセリング」でもあります。

また、過去に起こってしまったこともどうしても変えられません。時間を遡ってその物事を消すことは出来ないのです。それが事件や事故のようなものであった場合、それは「PTSD」といわれる症例が多数あるものです。それらを軽減するためにも「カウンセリング」が手助けしてくれます。そのように、私たちの身近な悩みから重大な心の傷までをケアすることができる可能性があるのが「カウンセリング」です。

人の心というものは多種多様ではありますが、長年の私たちの知識の蓄積によって「このような時に人はこのように思うだろう」というところまで、ある程度までは定量化されているものです。それらは学術的にも研究されていることです。私たちはそれらの恩恵を受けることができます。それらの知識を駆使すれば、解決できる心の問題というものは多いのです。

人として生きていくためには、社会に参画する必要があります。社会に参画するためには人が「当たり前」としていることを自分も当たり前にしなければいけないのです。それは難しいことでもあるのですが、それを乗り越えなければ得られない暮らしというものもあります。何もせずに生きていくことなどは出来ないものなのですから、「自分を変えなければいけない」という局面に遭遇した場合は、どうしてもそのようにしなければいけないのです。厳しいようですが、さまざまな人が関わりあいながら作られているのが社会です。現代に生きる以上、そこからは目をそむけることはできないものなのです。

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