人間だから悩むことができる

私たちは言語を使いこなします。世界中のさまざまな地域で異なる言語があるものですが、それらの「言葉の壁」をも私たちは乗り越えることができているのです。私たちはその知識を駆使して世界中の人とコミュニケーションがとれるようになっています。

私たちが「悩む」際には、主に「生きるために必要ではない部分」においてであることが多いのではないでしょうか。例えば対人関係、例えば仕事、例えば恋愛などといったように、私たちが悩むときは「生死に関わるようなこと」ではないことがほとんどです。それは、私たちの精神性がそのように形成されているわけではなく、「社会」が誰もが生きることを認めたものであるからです。誰もが等しく生きる権利を持っていて、誰もが等しく笑うことができ、悲しむことができ、何かに没頭することができる世の中であるからです。私たちが生きている「今」の社会はとても恵まれたものです。

もちろん、経済格差の問題や、その原因となる「仕事」の問題は解消されていません。それによって悩むこともあるでしょう。ですが、「悩める」ということは「生きている」ということです。「明日も生きる」から、悩むのです。「生」は保証されているようなものです。現代で大昔を引き合いに出すことはナンセンスかもしれませんが、現在のように「社会」が万人に優しいものではなかった頃は、私たちは「生きる」こと自体がとても恵まれているこということもあったのです。多くの子どもが成長する前に命を落としてしまうような時代もあったのです。それに比べれば、現代社会はとても恵まれているのではないでしょうか。

私たちはそれでも悩むことをやめません。それは他にもっと恵まれている誰かがいるからですし、自分の理想があるからですし、自分がどのような生き方も選べるからです。人間ではない生き物は、そうはいきません。人間以外の動物の暮らしは昔も現代も対して変わらないものです。100年たっても進歩しないものです。それは「言葉」を持っていないからです。持っているのは動物としての「習性」で、それらがあれば「生きていける」からです。

私たちは言葉を有し、知性を有しているが故に悩むのです。高度な社会、高度な文化を持っているから悩めるのです。動物と比較して幸せかどうかを考えること自体には意味はないのですが、私たちが悩むということ自体が文化的であるということだけは覚えておいたほうがいいでしょう。私たちが悩みながら、迷いながら日々を過ごせるのは、「人」であるからなのです。

「生きているだけでは足りない」、これが私たちの本質です。ただ野山を駆け回り、捕食するだけでは足りないから文明を築いたのです。社会を形成したのです。他者に認められたい、少しでも良い生活がしたいと考えることは、私たちが「人間」であるからです。人として生きることは悩むことでもあります。だから宗教が発達しました。人生に対して「答え」を得たいという欲求が、「すがるための何か」を生み出したのです。自然を超越した「奇跡」があるのかどうかはわかりませんが、宗教によって得られる「答え」は、人によっては「奇跡」に感じられるようなこともあったのでしょう。

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