何事も見方ひとつ

私たちの高度な精神性、豊かな精神性は、さまざまな物事を「額面」だけでは捉えないようになっています。それはひねくれているわけではなく、その物事、その言葉の「裏」にあるものを自然と考えてしまうからです。

その言葉の裏で、相手がなにを考えているのかを考えたり、造作物に接することでこれがどのような意図で用意されたものなのかなど、その言葉、物事の「真意」を考えようとするのが私たちです。それは無意識のうちに展開される思考でもありますし、私たちが人間である以上避けられないことです。また、「経験」上騙されたことがあるなど、何かにつけ思索するのも私たちの特性です。

それによって私たちが得たのは「芸術」です。私たちの心はさまざまなものに感性を動かされる、情動的になれる性質をもっています。それは「物事を額面だけで判断しない」ということの副産物でもあり、私たちの豊かな精神性の現れでもあります。芸術を楽しむ心は誰もが持っています。私たちは日々さまざまな芸術に触れています。さまざまな美しいもの、刺激的なものに触れ、心を充足させているのです。

人の言葉を鵜呑みにしなかったりすることと、芸術を楽しむことは一見すると違うことのように感じられますが、実は同じことなのです。私たちの心はコンピューターではなく、感性はプログラムではないのです。だからこそ、どんなこと、どんなものでも捉え方ひとつで「違って見る」ということが可能なのです。

相手に対して常に懐疑的であっては建設的なやりとりはできません。周囲の人の目が気になりすぎても、疲れるだけです。身だしなみを気にするのは周囲に不快を与えないためでもあり、同時に周囲に笑われないようにするためでもあります。そのように考え過ぎるうちに、自分が持つ何かがコンプレックスになってしまうこともあるでしょう。それがエスカレートすると、「人と会いたくない」であるとか「外に出たくない」といったような社会生活に支障をきたしてしまうような症状につながりかねないのです。

人によって感覚は違います。人の目をまったく気にしないという人もいれば、人と接するのが怖いという人もいます。それは「性格」であったり、人のスタンスであったりするため、第三者がどうこう言う余地はないのかもしれません。ですが、それによって生活に支障をきたすのであれば、改善する必要はあります。

そして、それらは実は「周囲が変わる」ということではなく「自分が変わる」ということなのです。正確には「自分の、周囲に対する考え方を変える」ことでもあるのです。人前が恥ずかしいという感覚も、何かのきっかけで変わったりするものです。私たちは考え方ひとつで自分が見ている世界を変えることができます。考え方ひとつで自分が感じていることを変えることができます。それが人間の奥深さでもあり、カウンセリングが存在する意義でもあります。

「諦める」ことは誰でも経験しています。ですが、絶対に諦めてはいけないことは「生きること」です。私たちはどうやってでも授かった命を全うする必要があるのです。そのために支障になっていることは取り除く必要があります。そして、それが心の中にあるのであれば、それは取り除くことができるのです。

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